書籍の紹介 摂津茂和  ゴルフ世界名勝負物語

  • 2015年02月24日

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10歳のキャディー、エディー・ロワリ―を連れたフランシス・ウィメットの有名な写真
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今日は簡単に書籍の紹介!
著者 摂津茂和
ゴルフ世界名勝負物語

摂津茂和は、作家でゴルフ史家としての第一人者です。ゴルフ書籍のコレクターとしても世界的に著名で数多くのゴルフのエッセーや歴史書を書いています。

ゴルフの発祥であるマッチプレーでの勝負の駆け引きや、騎士道精神にのっとった1対1の戦いを描いたこのお話はストロークプレー全盛の昨今では描く事が出来ない独特の世界観があります。

ゴルフ・コレクターズ・ソサイティの創立会員である摂津茂和氏は多くの英米の会員間のトレードによって思いがけないほどの古文献が集まり、ようやく必要な資料がそろったので、年来の夢の名勝負物語を描く決心がついたそうです。

その中で大好きなお話を紹介いたします。

1913年、全米オープンで、弱冠20歳の無名アマチュアのフランシス・ウィメットがイギリスのハリー・バードンとテッド・レイと1位をタイし、プレーオフで2人を破って優勝したというお話です。

ただ、上記のことを聞いてもパッ!と来ない方が多いと思いますが、当時アメリカはゴルフ後進国でイギリスから大スターのハリー・バードンとテッド・レイがアメリカの技術向上のため招待されたという事実があります。
そしてこの事を後年アメリカのゴルフ評論家のトム・フラハ―ティーは当時を回想して、
「これは今日アーノルド・パーマーとジャック・二クラウス(今でいうタイガーウッズとフィル・ミケルソン)が、ニューギニヤやサモア島で模範競技をやって土人たちを驚かしたようなもんだ」と話しています。

この無名のアメリカプレーヤー、ウィメットは10歳のおさないキャディーのエディー・ロワリ―とともにたたかい、世にもひたむきな顔をしながら、「しっかり!目をボールからはなさないで!」と助言したするなどその可憐で忠実な献身ぶりは、美談として有名です。

このフランシス・ウィメットの勝利からアメリカの快進撃が始まったと言われています。そしてウォルター・へーゲン、ボビー・ジョーンズの出現でアメリカがイギリスにとって代わりゴルフの王者に輝いたと言われています。


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書籍の紹介 ハーヴィー・ぺニックの最後のゴルフレッスン

  • 2015年02月24日

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今日は書籍の紹介です。
わたしのレッスンプロとして尊敬している人の本です。名前はハーヴィー・ぺニックというアメリカのプロゴルファーです。彼を慕うプロゴルファーにはそうそうたるメンバーが名を連ねています。デービス・ラブⅢ、トム・カイト、そしてベン・クレンショ―です。

彼が書いたレッスン書、リトル・レッド・ブックとグリーンブックは大ベストセラーとなり一躍有名となりました。かれは、この本の執筆中に肺炎で倒れ死の床からこの本を書き上げました。
彼は、こう言ってます。人はすべて、自分が卓越していると思いこみたい。教師からの批判は、進歩への意欲を殺いでしまう。賞賛することには積極的に、欠点を見つけるにはゆっくりでいいのだ。
議論はするな!!たとえ議論に勝っても、たいてい生徒の好意を失うだけのなのだ。生徒には、彼らが間違っているというべきではない。私たちのほとんどは、自分自身について
”ひがみ”を抱いているものだ。自分が間違っている時には、それを自分で認める事があるかもしれない! が、仮に誰かが、その事実を突き付けようとしたら、絶対に認めたがらないであろう!

1995年、90歳でトム・カイトにみとられて息を引き取ります。その1週間後、ベン・クレンショ―は2回目のマスターズチャンピオンに輝きます。そのわずか2週間前ぺニックは、70年以上に及んだティーチングプロ生活で最後のレッスンをクレンショーに行った。そこで死の床からかすれた声で指示を出した。「自分を信じよ。自分自身を信じるんだ…」

この年のマスターズで最後のパットを決めた瞬間、ベン・クレンショ―はこみ上げる思いを抑えきれず、両手で顔を覆い、グリーンにうずくまった。この映像は、今でもマスターズのオープニングの歌の時に流れています。そして、彼はスピーチでこう語っています。「バックの中に15番目のクラブが入っていたんです。そう、ハーヴィー・ぺニックという名のクラブが」
マスターズは、4月6日から始まります。楽しみですね!


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ボビー ジョーンズの名著 ダウン ザ フェアウェイ③ オールドマンパー

  • 2015年02月24日

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今回がボビー・ジョーンズのお話の最終回です。ボビー・ジョーンズのゴルフのプレーするときの考え方にオールドマンパーという概念があります。

ジョーンズが勝てなかった時代に深く悩んだ時、胸の内におぼろげな影が浮かびました。それは、少年時代に見た英国のハリー・バードン(伝説の名プレーヤー)のプレーぶりです。

冷静、氷のようなバードンは、激しく襲いかかるアメリカ勢には全く目もくれず修行僧のようにPARを一つずつ重ねて戦いました。その孤高な態度がジョーンズの心を打っていたのです。
バードンは敵と戦っているのではない、コースが定めたPARに向かって自分の責任を奉仕していたにちがいないと。ここにパーおじさん(オールドマンパー)の概念がうまれたのです。それからジョーンズの快進撃が始まります。

ボビー・ジョーンズは1930年、4大メジャーを1年間で全て勝つグランドスラムを達成します。しかしその道のりは険しく、6月の全英オープンではひどく体調を崩し試合の間に7キロ近く体重が減り、筋肉の痛みの為にネクタイも締める事が出来なかったと言われています。
その後の全米オープンでは摂氏40℃の猛暑の中プレーし、優勝はしたもののこの地点で競技の引退を考えていたそうです。
最後の全米アマチュアでも優勝はするものの、彼の体はボロボロだったのです。グランドスラムを達成し全盛期に引退した理由に道具がヒッコリーからスチールシャフトにかわり、その変化に対応することができなかったからという説がありますが、やはりそうではなくジョーンズは身を削り、身を焦がし、競技ゴルフの過酷さに耐える事が出来なかったのではないでしょうか。
そのボビー・ジョーンズが引退のあとに創設したオーガスタナショナルで4月にマスターズトーナメントが開催されます。ジョーンズの理念を理解したうえで、この試合を観戦するとまた違った楽しみがあるのではないでしょうか


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ボビー ジョーンズの名著 ダウン ザ フェアウェイ②(競技ゴルフと普通のゴルフの違い)

  • 2015年02月24日

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前回に引き続き、ボビー・ジョーンズのダウン・ザ・フェアウェイのお話をしてみます。
この本の中で、2種類のゴルフという項目があります。

それは、ゴルフとトーナメントゴルフ(競技ゴルフ)があり、その2つは決して同じではないということに気づくまでに長い歳月がかかったと書いてあります。

この話は、この情報化社会の中でテレビで見るプロゴルファーのゴルフを見てそれを手本にしようとする人々に対する警鐘になります。

ボビー・ジョーンズは、こう言っております。
「時間に余裕があって、しかもゴルフが好きな人はアベレージゴルファーをはるかに超えたクラスを目標に真剣な研究と練習に充分な時間をかければよい。
しかし、一般の人のようにわずかな暇しかない人は、自分と同じような人たち、フォアサムでささやかな楽しみを求めてラウンドすることに満足すればよいのである。しかし、この2者をミックスさせることはできない。特に後者の努力で前者の野心を満たそうとする事は無意味である。」

競技ゴルフはそれなりの経済的な負担が大きいのです。ボビー・ジョーンズは自分のホームコースのアトランタアスレチックゴルフクラブがジョーンズの住居購入を援助しようとした際、アマ資格が頭をもたげ、事業家だった祖父から100年ローンで貸与し、28歳で競技ゴルフを引退後、ゴルフレッスン映画を作成し、返したと言われています。

競技と普通のゴルフの違い。どちらが優れているというのではなく、どちらにも素晴らしさと苦悩がありそれも含めてゴルフであるということを教えたかったのではないでしょうか。


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